昨日、スーパーの買い出しが終わって荷物を車に積んでいるとこの辺をうろついているホームレスがゴミ箱を漁っているのが目に入った。このホームレスが何度かこのスーパーで万引きをしているのを見たことがある。堂々と私の目の前でチーズをポケットに入れてそのままスーパーの入り口から出ていった。私が見ていたことなど気に求めない、そんな態度と堂々と万引きをする姿に驚いた。彼にとって万引きは悪いことという自覚がないのだろう。そのホームレスが目の前でゴミ箱を漁っていたのだ。なんとなく、出来心でバナナとビールを渡した。私は勇気が出なかったので夫が代わりにホームレスにバナナとビールを差し出した。しかし男は受け取らなかった。ゴミ箱を漁るということは何かめぼしいものがないか探していたはずなのに、男は受け取らなかった。その後戻ってきたバナナとビールを車に積もうとした時に、バナナにカビが生えていたことに気がついた。そして私たちは、なんだか悪いことをしてしまったような気分になった。
ベルリンの電車に乗っていると、時々物乞いに出会うことがある。彼らは自分がなぜ物乞いをしなければならないのか大きな声で演説を始める。それも電車が駅を出発して次の駅に到着するほんの2、3分の時間の間に要領良く話すのだ。その演説のスキルがあれば物乞いなんかせずに他の仕事につけそうなのに、と思うほど上手な人も時々いる。演説が終わると次の駅に着いて電車の扉が開くまでに、紙コップや帽子などをそこに乗り合わせている乗客に差し向けてお金を入れ安いように車両を一回りする。お金を入れない人の方が9割くらいだが、時々お金を入れる人もいる。お金を入れない代わりにリンゴを入れる人もいる。ドイツ人は何故かカバンにリンゴやニンジンが丸ごと入れている人が時々いる。そしてそれを物乞いに差し出すのだが、物乞いはリンゴなんかいらない!と大きな声で断る。今日はりんごばっかで嫌になるぜ、と吐き捨てて出ていく人もいれば、俺はビールを買って飲みたいんだと叫ぶ人もいる。物乞いのくせに、と思う。けれど物乞いだって好きなものを食べて飲みたいのだろう。だったら物乞いなんかせずに働けよ、という話だ。だから彼らは電車の中で饒舌になぜ働かないのか、働けないのか語るのだ。
このような出来事に出会うと人権について考える。彼らは働かないことを選んだのに、好きなものを食べて暮らしたいと言う。人からもらえるものはなんでもありがたいとは思わない。こちらにだって選ぶ権利がある。
では物乞いにお金を与える方の権利はどうだろう?お金に恵まれているから、それを誰かに分けたいと思えば行動するし、自分で働けと思うのなら寄付なんかしなくても良い。
この世界にはたくさんの人がいる。もし日本の価値観が丸ごと残っている私ならバナナを受け取らなかった男に対して「物乞いのくせに施しを受け取らなくて生意気だ」なんて思ったかもしれない。けれど今は男の目から見える世界と私の目から見える世界が違うということが理解できる。同じ場所で生きていても、男と私の間には遠く離れて決して交わることのない世界が広がっている。だから自分と違う価値観を持って、私の好意を受け取らなかった男を責めるのは間違っているのだ。私に選択の自由があるように、ホームレスにだって選択の自由がある。そこには社会的ステータスも、国籍も、何も関係ない純粋な平等が存在しているのだ。