自己紹介をする時に自分を表すアイコンが必要になった。他の人のアイコンを見ると、それぞれの個性が出ている。自分の好きなものやステータス、職業などが一目ですぐわかる。そう考えるとアイコンというものはとても便利だ。私もアイコンが欲しいなぁと思い、もし自分で作るならどんなものにしようかと考えた。しかし何も思いつかない。私は自分が好きなものだけに囲まれて生きているはずなのに、私を象徴するモノが何一つ思い浮かばないのだ。自分の生活の周りにあるものを見渡す。チワワ、ドイツ人の夫、育てている植物、大量の仕事道具とガラクタ、好きな音楽。
アイコンという小さな窓枠に私を詰め込むにはあまりにも規模が大き過ぎるし、どれも統一性がない。自分とはなんなのか?改めて迷宮に入ってしまった。私自身はここにいるはずなのに。
アイコンとは表面的な表現にしかすぎない。アイコン一つで何がわかるというのだろう?という反面、アイコンだけでその人の情報を得ることができる。ものすごく凝った合成画像や好きなファッション、ライフスタイルを表現しているアイコンたち。それなのに私は現代美術の世界で生きているのに、自分自身を表現できるアイコンがないことに寂しさを感じつつも美術がもつ世界観の広さに改めて驚いた。
本屋さんなんかで美術書を漁っていると、たくさんの美術家の図鑑や書籍が出てくる。美術家だけでなく、写真家、デザイナー、音楽家など数えきれないほどの人々の本たち。それらの本の中にはたくさんの作家の歴史、作品、哲学、ライフスタイルが記録されている。しかし生身の作家が持つ情報量や放つエネルギーというものは一冊の本には収まりきらない。そんなことはどの出版社だって知っている。しかし記録して後世に残して行くためには必要なことだ。人はいつか死んでしまうのだから。
私のアイコンを考えたときに私を象徴するものがないことが寂しいと書いたが、その反面少し嬉しい気持ちにもなる。それは私自身がマテリアルに依存して生きていないからだ。私は作品を通して社会とのつながりを持っている。しかしその作品は常に形やテーマを変えていく。なぜなら私は生きている限り、美術の中を冒険し続けているからだ。だから一つの作品が終わったらまた次の作品を作る。その作品が他の作品たちと矛盾していても、私は作る。私は一人の人間としてたくさんの矛盾を抱えて生きていることを受け入れなければならない。昨日赤色に見えた世界は、今日には黒く見えるかもしれないのだ。それが生きるということなのだ。
私を象徴するマテリアル。物質の世界に生きているけれど、私の生活はマテリアルに精神的に依存していないことを改めて感じた。それと同時にアイコンを持たない私はこの現代社会からはじき出されてしまったようにも感じる。