私が大学生の頃、進路について学校側と面談をした時に今でも覚えているのが「お前はこの先の人生ずっと自分の人生の責任を背負わないまま生き続けるのか」と言うある人の言葉だった。私はこの言葉に違和感を感じていたが、その違和感が何なのかよくわからないでいた。この言葉から20年近く経とうとしている。そしてこの20年間の歳月と経験が、この言葉に感じていた違和感の答えを導き出した。
世間の責任と、私が考える責任の違い
社会が私たち民衆に望む責任と、私が自分自身の人生に望んでいる責任。
この二つの責任は、全く違った意味と世界を表している。
社会が私たちに望むことは労働と納税だ。自分の時間と労力を社会に貢献し、税金を納めること。そのためには嫌な上司や意地悪な同僚とうまく付き合い、下手すればやりたくもない仕事を毎日こなし、なにに使われているのかよくわからない税金を国にプレゼントしなければならない。残念なことに私たちは資本主義のシステムに生まれ、育ち、そしてそこに参加しなければならない運命の元に生まれたのだ。
私にとって、これらは非常に耐え難い拷問のような時間だった。
大学を出たあと数年間それとなく社会人をした。当時はその環境に慣れないのと、自分の人生を生きているというよりかはまるで誰かの奴隷のように感じ始めて、その職場を去った。私にとって社会人として会社勤めをすることは、形は違えど政府の命令で戦争に行って戦って死ねと言われているのとなんら変わりのないことと同じである。社会人になることと、戦争に行くこととはまるで別世界の話のように感じるが、実態はそう変わらない。社会人になって、社会的要因で死ぬことだってあるのだから。
自分の人生を生きる自由を得るためには
私は、誰かが私に勝手に押し付けた資本主義というシステムの中で生きていくことに違和感を感じていたが、果たしてそれらから逃れることができるのだろうか?という疑問を抱きながら生きてきた。時々、不安やこの先の人生の恐怖に襲われながら、悩み、自分で考え、自分で決めて生きてきた。そんなこんなしているうちに20年が経った。そして、私は今、自分の人生を自分の責任で生きている。誰かが私に強要したり、奴隷のように扱うことではない。奴隷のように生きて納税をしたところで、私たちの国が私たちに何をしてくれるというのだ? 社会に属して生きていくことは、ある意味で簡単だ。どこかに属することができれば、そこにある問題や課題と向き合い、仕事をこなすと毎月ちゃんとお給料が支払われる。誰かに仕事を与えてもらえるというシステムは素晴らしい。そこで一緒に仕事をする仲間と出会えることも素敵なことだ。けれど、私にはその世界は合わなかった。たったそれだけのことである。 私の友達や会社勤めをしている友人たちには、私の生き方を羨ましがる人がいる。めんどくさい上司もいないし、意地悪な同僚もいない。けれど私は会社勤めを忍耐強くこなせる友人を時々羨ましく思うこともある。私にできないことがでいる人、私にできることができない人。この世にはたくさんの人々がいるのだ。たまたま、私は少数派として生きることを選んだがこの選択に後悔をしたことは一度もない。私には、自分の人生を自分で生きることができる自由と責任がある。それだけでも毎日お腹いっぱい生きていけるのだ。